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人物プリズム13
菅直人‐総理待望論が出ないわけ


■本当の仲間・同志なくして頂点は望めないのだが…
「側近に『おい、これどうなってんだ』と声をかけ、相手が『ええと、それは…』などといい淀むと、『お前、そんなこともわからないのか! もういい、全部俺がやる!』とすぐ怒る。“イラ菅”のゆえんだが、人に厳しくて自分に優しいところがある」
政治評論家が菅直人を評してこう語る。ソフトな外見と違って、気性は短気で激しい。
それが災いして副総理でかつ、年明けから財務相という要職に就いたにもかかわらず、人気も存在感もいま一つだ。
献金疑惑で鳩山由紀夫首相の退陣説が出るなかでも“菅総理”の待望論がなかなか出て来ない。なぜなのか。
「ファミリーで周りを固めるような政治は好まない。子分を作らないというか。そこが彼の良さだが…」(菅氏の国政選初出馬当時の選挙を手伝っていた市民バンク代表の片岡勝氏)
厚生相だった’96年、薬害エイズ問題で厚生官僚が存在しないといい張った内部資料を出させ、原告団に深々と頭を下げたかと思えば、年金未納疑惑の“禊”で、突然、お遍路になって四国巡礼の旅に出る。この人、ヒーローか、パフォーマーなのか?



■大学で文部省役人と交渉
菅氏は1946年、山口県宇部市生まれだが、今でも帰郷すると、同市立琴芝小学校の担任だった現在90歳の原幸江氏を必ず訪ねる。
当時の同級生が語る。
「菅さんは原先生を今でもとても慕っている。菅さんは、運動はそんなに得意じゃないし、ガリ勉でもない。みんなでワイワイ、三角ベースとかをやっていた。休み時間にボールを拾いに行ってドブ川に落ちて、すごい臭い匂いをさせて教室に戻ってきたことがあった(笑)。卒業時の寄せ書きには『総理大臣になりたい』って書いていた」(琴芝小の同級生で、宇部市でキハラ写真館を経営する木原道子氏)
中学時代は軟式テニスに熱中。高校は県立宇部高校に進学した。「数学が得意で、全国模試で100位以内に入ったこともある」(宇部高校の同級生)。
高校2年の途中で、父親の転勤に伴い東京に転居、都立小山台高校に編入。その後、現役で東京工業大学理学部応用物理学科に入学する。
学生運動が盛んな時代で、東工大は中核派の学生が多かったが、菅氏は自ら、思想的色合いのないノンセクトのグループを立ち上げ、リーダーになった。
「グループが大学側と交渉する際、国立大学だから文部省の役人が出てくる。菅君は『役人は法律に詳しいから』といって、こっちも情報を集めて予め勉強した。人に厳しいというか、自分を基準にして相手を見るところはあった。でも堅物じゃない。当時、一般公道を走る学生の自動車レースがあって、一緒に出場した。菅君は車内で地図を見ながら、次のポイントまでは何kmだからここは時速何kmで通過するなんて計算を、当時、電卓はないから手計算でやっていた」(東工大の同級生だった高橋誠氏)
大学4年時に、東大安田講堂事件が起きる。菅氏は1年留年して’70年に卒業。すでに市民運動に目覚めていた菅氏は、自由な時間が持てるようにと、弁理士を目指して特許事務所に就職する。
この頃、土地問題をテーマにしたシンポジウムを開く。
都内の農地を宅地並みに課税し、土地供給を促し、地価を下げてサラリーマンが一戸建てを買えるようにしようという運動だった。このシンポジウムで、婦人運動の草分け、市川房枝氏と知り合った。
’74年に、菅氏は市川氏を参院選に担いで当選させたが、選挙の手法で影響を受けた。
「当時、喫茶店で、菅君が選挙の手引書を持ってきて、私にやり方を聞いていた。市川さんは、ボランティアを集めて選挙活動して、選挙が終わると解散させた。お金を掛けて当選すると、結局金権政治につながるからだ」(市川房枝氏の秘書だった山口みつ子氏)
そして、’76年、今度は菅氏自らが参院選に旧東京7区から出馬する。社会党を飛び出し、社会市民連合を作った江田三郎氏と組む。当時、菅氏の支持者は約500人。そこで、1回目は当選を狙わず、知名度を上げる作戦に専念した。
「基調は全部黒。ポスターも印刷物は全部白黒。内容も硬い文章。たすきはしない、手袋しない、握手もしない、笑わない。硬め、硬めで7万票取った。4回目の選挙で初めてたすきを掛け、ポスターは全部カラーにして、笑う、握手すると全部ガラっと変えた。それで15万票取って当選した。彼は変われる。変化の時代には強い」(前出、片岡氏)
実は、市川房枝氏も選挙では笑わず、握手もしなかった。



■真夜中に秘書に電話する
’80年、衆院選初当選。秘書の入れ替わりが激しかった。
「夜中の零時に電話掛けてきて、朝6時までに講演の原稿を作ってくれと平気でいう“暴君”なんです。1年生議員の頃から酔っぱらうと、『総理大臣になる。奇兵隊を率いて天下を取る』といっていた。高杉晋作に心酔していて、民主党はその奇兵隊ということ」(菅氏の秘書だった政治ジャーナリストの松田光世氏)
小学生のときの「寄せ書き」は思いつきではなかった。
質問主意書を活用し、国会で質問攻めを行い、丸山ワクチンの無認可問題などを取り上げた。予算委員会で野党質問のトップバッターを13回連続して務めた記録をもつ。
’96年、自社さ連立の橋本龍太郎内閣で厚生相に就任した。官僚によるコントロールは大臣就任記者会見から始まる。
「就任記者会見に行く途中で、厚生省の役人が待ち構えて、『おめでとうございます。これが記者会見用のメモです』という。僕はそれを受け取って右ポケットに入れて、左ポケットから自分で用意したメモを出して菅氏と会場に向かった」(前出、松田氏)
そして、あのエイズ問題で一時期脚光を浴びるが、厚生省が公表した資料は実は一部が黒塗りされていて読めなかったことや、原告団が要求した恒久的な対応を、菅氏が「次の大臣の活動を拘束できない」として断ったことなどからマスコミに叩かれた。
同年9月、鳩山由紀夫氏らとともに旧民主党を結成し、共同代表に就任。与党政権の閣僚でありながら、ホテルを籠脱けしてマスコミをまき、鳩山氏と面会を重ねて、野党結成の準備をしていたのだ。
’99年、メディアコンサルタントとの不倫疑惑報道で世間を騒がせる。菅氏は「一夜をともにしたが男女関係ない」と強弁した。しかし、先刻お見通しの伸子夫人に「バカたれ! 脇が甘い」と怒られた。
伸子夫人は菅氏の一つ年上のいとこで、津田塾大在学時(卒業後、早稲田大に学士入学)に菅家に下宿していた。記者の間で酒豪で知られる。
「菅家で番記者と飲んでいると、そのうち菅さんは床に崩れてしまい、その上を猫が飛び越えていく。最後はいつも奥さんとの記者懇になる」(政治ジャーナリスト)
菅氏は厚生相のときのように、財務官僚を御していくことが出来るのか。本気で財政再建、税制改革に取り組むのであれば、かつてはいた信頼できる優秀な政策スタッフが必要になってくる。しかし、そうした努力をする動きはまだない。特別会計などの見直しの目途がついてもいないうちに、消費税論議を始めるというのもわからない。
「彼は独善的で激しく追及するタイプだから、反感を買うだけ。エイズ問題のように資料出せと乗り込んで行くようなときはいいが、本来は、官僚をうまく使って情報、知識を引き出すのが大臣の役目だ。インタビューがしづらい政治家の1人で、質問の最中に議論をふっかけてくる。相手をやり込めないと気が済まない人だ」(ジャーナリストで元衆院議員の木下厚氏)
菅氏は司馬遼太郎の『坂の上の雲』を愛読し、長男に児玉源太郎元帥から取って源太郎と名付けた。児玉は二百三高地で乃木希典大将から指揮権を奪ってロシアに勝利した。菅氏の目の前に広がる二百三高地は国民の不人気か、あるいは財務官僚か。

(2010年3月号掲載)
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