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慢性疾患としてQOL向上へ
分子標的薬の「病勢安定」が癌患者を救う
腫瘍を「完全寛解」するわけではないが成長を抑制し少ない副作用で驚異的な効果


正常細胞への影響を極力排除
 日本のがん治療の世界で、いまや「分子標的薬」はなくてはならないものとなっている。がんのある部位(腫瘍)をピンポイントで攻撃することから「標的」薬と呼ばれているのだが、がん細胞そのものを殺す効果は低い。
 その反面、従来の抗がん剤のように、腫瘍だけでなく正常細胞をも傷つけてしまうために起こる、嘔吐や脱毛、神経障害など日々の生活に支障をきたすような副作用はほとんどない。腫瘍が成長できないので、慢性疾患のように病状が安定化し、患者の生活の質(QOL)向上が図れるのだ。世界中の大学研究者や製薬会社がこぞって開発競争を繰り広げており、今後、数年間のうちに続々と新薬が登場する見通しだ。
 抗がん剤は、いくつかの種類に分類される。がん治療では、抗がん剤を単独ではなく、数種類組み合わせて患者に投与すること(化学療法)が標準となっている。
 がんは、もともとは細菌感染によって起こると考えられていたために、抗生物質をベースに研究が進められていた。第一次世界大戦でドイツ軍が使った毒ガス研究から開発された「アルキル化剤」、がん細胞の酵素を利用し増殖を抑制する「代謝拮抗剤」、細菌に対する抗生物質と同じようにがん細胞にも効果を発揮することを狙った「抗がん性抗生物質」など、これらは殺細胞性抗がん剤と呼ばれる。ほかにも民間伝承で用いられてきた「植物由来物質」や、ホルモンの働きを抑えたりする「ホルモン補助療法」がある。加えて、特定のタンパク質や酵素など分子に働きかけ、がん細胞の増殖を抑える「分子標的薬」(分子標的抗がん剤)である。
 殺細胞性抗がん剤が、がん細胞だけでなく正常細胞をも攻撃するため「じゅうたん爆撃」や「ヘリコプターによる農薬散布」などに例えられるのに対し、分子標的抗がん剤は「ピンポイント爆撃」や「特定の雑草駆除」などと表現される。要するに、正常細胞への影響を極力排除した抗がん剤である。
 日本で分子標的抗がん剤が知られるようになったのは’01年のこと。スイスの製薬大手2社が画期的な抗がん剤を発売した年である。ロシュ社(現在の発売元は子会社の中外製薬)の乳がん治療薬「ハーセプチン」と、ノバルティス社の慢性骨髄性白血病治療薬「グリベック」が相次いで登場した。
 グリベックの治療効果は驚異的なものとなった。臨床試験では、1千人以上の患者の約90%で白血球数が正常値へ回復したのである。通常の抗がん剤が20〜30%の患者に効けば「有効」とされるなか、桁外れの効果をもたらしたのだった。
 ある遺伝子変異をもつ患者にしか効果がないものの、グリベックやハーセプチン登場のインパクトは絶大で、医師や患者の抗がん剤に対するイメージを一変させてしまった。
 分子標的抗がん剤にも、いくつかのタイプがある。
 がん細胞は、細胞内で遺伝情報を抱えるDNA(デオキシリボ核酸)が何らかの原因で変異し、細胞内にある酵素やタンパク質に異常なシグナル(信号)を送り、急速に細胞分裂を繰り返していく。しかも、正常細胞よりも速いスピードで異常増殖するため、正常細胞以上に酸素や栄養が必要になる。
 このため、がん細胞は、周囲の血管から酸素や栄養を得ようと、新しい血管を作ることを周囲の血管に働きかける。その結果、血管が伸びてきてつながり、働きかけた発信元のがん細胞は酸素と栄養を得られるようになる。このメカニズムを「血管新生」という。

■糖尿病などと同じように治療
 
一方、細胞外からの命令を受けて分裂する正常細胞に対し、がん細胞は細胞表面にあるEGFR(上皮成長因子受容体)といった受容体が、正常な分裂命令でないにもかかわらず、他のがん細胞から送られてきた異常信号をキャッチし、細胞内の酵素に順々に働きかけ、最終的に増殖命令を下す。この過程を「シグナル伝達」という。
 血管新生を抑えられれば、血管内に流れ出るがん細胞の数が減り、結果として転移も抑制できる。シグナル伝達を阻害できれば、がん細胞の増殖を止めることができると考えられている。
 血管新生阻害剤は、がんの栄養補給を絶つ「兵糧攻め」作戦で、米ジェネンテック社が開発した「アバスチン」(日本では承認審査中)が有名だ。欧米では大腸がんの標準治療に組み込まれている。シグナル伝達阻害剤は、鍵穴(受容体)にカチッとはめ込む鍵(化合物)に例えられており、グリベックのほか、英製薬大手アストラゼネカ社の非小細胞肺がん治療薬「イレッサ」が知られている。
 最近では、この血管新生阻害とシグナル伝達阻害の両方の作用をもつ新薬も出てきた。独化学大手バイエル社の「ネクサバール」である。
 同薬は、細胞内で細胞増殖のシグナル伝達に関わっている酵素RAFをターゲットに開発していたが、その後の研究で血管新生を促すVEGF(血管内皮成長因子)受容体キナーゼという酵素の働きをも抑えることがわかった。
 バイエルは20以上のがん種で研究を進めた結果、第1弾の適用として「進行性腎細胞がん」を選んだ。進行性腎細胞がんは現在、基本的に治療法が腎臓の部分摘除や全摘除といった外科手術、あるいはインターフェロン1またはインターロイキン2を用いる免疫療法しかない。高い有効性をもつ抗がん剤がなかった。
 バイエルが欧米で実施したネクサバールの臨床試験では、約900人の患者に対してプラセボ(偽薬)と比較した結果、がんが悪化しなかった無増悪生存期間がプラセボは2・8か月に対し、ネクサバールは5・5か月と約2倍の効果を示した。腫瘍の縮小・増殖抑制効果もプラセボ55%に対し、ネクサバール84%と差がついた。米国ではわずか5か月間で承認され、’05年末に発売された。日本では厚生労働省が’06年内にも承認する見込みだ。
 さて、分子標的抗がん剤の最大の特長は、延命効果や腫瘍の縮小効果よりも、腫瘍が大きく成長できないために患者の病状が安定化することだ。従来の抗がん剤のように、正常細胞をも巻き込んでがん細胞を叩くことがないために、毒性が高くなく、患者は副作用にそれほど苦しまずにすむ。ただ、がん細胞を殺すことはできないため、殺細胞性抗がん剤を併用することになり、多少の副作用は避けられない。それでも、従来の抗がん剤だけの投与から比べれば、患者にとっては安心できよう。
 製薬会社の期待は、分子標的抗がん剤によって患者の病状が安定すれば、糖尿病などと同じ慢性疾患としてがんの治療を続けさせられることにある。

■病状の安定期間には個人差が
 ただ、製薬会社の行う臨床試験の結果は、あくまで統計データにすぎない。例えば、ネクサバールの臨床試験では、900人の進行性腎細胞がん患者を集めて、ネクサバールもしくはプラセボを投与する患者の2群に分けた。単純にいえば、本当にネクサバールの効果が試されたのは450人ということだ。腫瘍の縮小・増殖抑制効果があったのは84%で378人。差し引き72人は効果がなかった。
 900人という患者数は少ないように思えるが、悪性度が高く進行が早い進行性腎細胞がん患者は、世界で21万人、日本では1万5千人程度しかいないので、臨床試験としては十分な人数なのである。そこで強引ではあるが、日本の1万5千人に欧米の臨床試験結果を当てはめて計算すると、患者の16%、2千400人には腫瘍の縮小・増殖抑制効果が期待できないことになる。すべての患者に効果があるわけではない。
 がんの病状には、腫瘍が消失した「完全寛解」と、腫瘍が50%以上消失した「部分寛解」、そして腫瘍の大きさが変化しなかった「不変」がある。基本的には、完全寛解と部分寛解を足し合わせた割合が「奏功率」といわれ、不変以上を奏功率としているケースもある。ネクサバールでは、84%の患者を「不変」としている。完全寛解でなければ、単純に腫瘍の大きさに変化がなく、病勢が安定しているだけなので、薬を飲み続けなければならない。この意味では、製薬会社の狙い通りだ。
 ところが、病状が安定している期間は、患者によって異なるうえ、ネクサバールの例では、わずか半年程度。これは平均であるため、わずか数週間という患者もいる。結局は、完全寛解にいたる薬ではないうえ、飲み続ければ延命できるのではなく、どこかの時点でがんが再発・悪化し始めれば、手のほどこしようがない。
 がん患者としてはワラをもつかむ思いであろうが、「夢の新薬」の現実面をみて治療を受けるかどうか判断すべきだろう。

(2007年1月号掲載)
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